VIRGIN DUCATI | Fabio Taglioni(ファビオ・タリオーニ) ドゥカティ人物辞典

Fabio Taglioni(ファビオ・タリオーニ)

  • 掲載日/2011年02月24日【ドゥカティ人物辞典】

デスモドロミックを実現したドゥカティの父
ファビオ・タリオーニ Fabio Taglioni(1920-2001)

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設計図をひくファビオ・タリオーニ。その姿には神々しさすら感じる。(写真提供=MUSEO DUCATI)

ドゥカティを創造した天才技師

ファビオ・タリオーニは1920年9月、イタリア・エミーリア地方ルーゴに生まれた。オートバイ好きだった父・ビアジオはAJSのOHV単気筒ビッグポートを乗り回し、技術者としても成功を収めていた。もちろんタリオーニはそうした父から大きな影響を受け、幼い弟とタンデムしてオートバイを乗り回す少年だった。ボローニャ大学に進んだ後、世の中は第二次世界大戦に突入する。21歳だったタリオーニは、イタリア陸軍の機甲戦車部門を経て輸送技術部門に移籍する。シチリア島で軍用車の修理に当たっていたタリオーニはそこでモトグッツィやジレラの軍用バイクに乗る経験をしている。

戦争が終わり、ボローニャ大学に復学するとタリオーニは工学技術の博士号を取得、チェカート社に入って自転車用2ストロークエンジンの開発にあたる。DOHCを考案するなど才能の萌芽がみられたが、まだ若い彼にそれを実現するチャンスは巡ってこなかった。その後、モンディアル社を経て、タリオーニはドゥカティ・メカニカ社に入る。

そもそもラジオメーカーだったドゥカティだが、ライセンス生産した50ccモペット『クッチョロ』の成功を足がかりにエンジン製造からモーターサイクル製造へと飛躍をとげるべく、ドゥカティ・エレクトロニカ社(電気機器製造)とドゥカティ・メカニカ社(オートバイ製造)に分離した。ドゥカティ・メカニカ社長に就任したジュゼッペ・モンターノは、レースで勝つためのマシン製作を任せるためにタリオーニを招聘、重役兼主任設計者に任命するのである。そのときのタリオーニが33歳だったことを考えると、モンターノがタリオーニに社運を賭けていたことがわかるだろう。

その期待を裏切ることなく、55年にタリオーニはSOHCベベルギアシャフトの100ccグランスポルトレーサー「マリアンナ」を作り上げ、「速いドゥカティ、勝てるドゥカティ」のイメージをイタリア中に印象づけた。当コラムのタイトルに使用している写真は、タリオーニ(写真中央)とマリアンナを写したものだ。

56年にはデスモドロミックを搭載したDOHC 125ccビアルベロ(通称トリプルノッカー)を開発、このマシンをひっさげて世界GPに参戦する。同年、ドゥカティは初の市販車OHC 175ccスポルトをミラノショーで発表した。これがドゥカティ初の市販ロードバイクである。60年にはビアルビロと同型式の250ccと350ccが製作され、このマシンをマイク・ヘイルウッドが駆って世界GPを走った。この活躍は市販ロードバイクの売り上げに大いに貢献する。「レースで勝ち、市販車を売る」というドゥカティに今も根づく販売戦略はこの頃に実践されていたのだ。

その後もタリオーニはドゥカティのエンジニアリングの中心で活躍を続け、70年11月のミラノショーでLツイン750を発表する。72年にはポール・スマートによるイモラ200マイルレースでの勝利、78年にはマン島TTでベベルLツインを駆ったマイク・ヘイルウッドが優勝し、Lツインのドゥカティが世界中のモーターサイクルファンを魅了するのだ。

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成果を確実にするためタリオーニは必ずレースに顔を出し、ライダーたちを称えた。72年のイモラ200マイルの表彰式にて。(写真提供=MUSEO DUCATI)

自ら設計したマシンの成果は、あくまで現場で得られると考えていたタリオーニはレースフィールドに必ず顔を出した。そしてLツインはベベルからコッグドベルトに、2バルブから4バルブへと進化を続けたが、タリオーニはLツインのイモラーレーサーから78年の900TT1にかけてのLツインをもっとも気に入っていたようだ。

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1998年6月、ボローニャにてクラブマン誌の取材を受けるタリオーニ。

2001年にタリオーニはこの世を去った。その3年前、1998年6月にクラブマン別冊『ドゥカティ・カンピオーネ・デル・モンド』誌のインタビューにて、彼はこんな言葉を世界のドゥカティファンに贈っている。

「神は世界を創造し、私は世界を走るドゥカティを創造した」

タリオーニなくしてドゥカティは語れないし、また存在もしないのである。

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