VIRGIN DUCATI | ポール・スマートが語るイモラ200の真実 トピックス

ポール・スマートが語るイモラ200の真実

  • 掲載日/2011年03月31日【トピックス】
  • 文/Katsumi Taguchi  写真/Takao Isobe
    本記事は、DUCATI CDM 004(2002年2月発行)にて掲載されたものです

イモラ200マイルレース優勝30周年特別企画
「ポール・スマートが語るイモラ200の真実」

イモラ200マイルレースを制した男、ポール・スマート。2002年、本誌は彼の単独インタビューを敢行、イモラ200マイルレースについてたっぷりと語ってもらった。ここではそのインタビューに加えて、ドゥカティ・ミュージアムに展示されているその優勝マシンの全貌に迫る。

ポール・スマートの追憶

イモラ200の画像

インタビューに快く応じてくれたポール・スマート。イギリス・ロンドン近郊にてバイクショップを営む。

「まさか勝てるなんて思ってもいなかった。
誰よりも“ドゥカティ関係者”がそう思っていたはずさ」

ポール・スマートは現在56歳(2002年当時)。彼のレーシング経験は長く、またバラエティに富んでいる。そんな彼の名を一躍有名にしたのが、忘れもしない1972年のイモラ200マイルレースである。ドゥカティスト達は皆、このレースのことを決して忘れることはないだろう。このときドゥカティは、初めての“ビッグバイク”つまり最初の750ccLツインで参戦したのだ。

その頃、すでにドゥカティは、小排気量クラスで成功を収めていた。そしてドゥカティは、1972年に入ると「ビッグボーイズ」に挑戦することを決意した。闘いの場に選ばれたのは彼らのホームグラウンドである“イモラサーキット”だった。それは実に勇気のある決断だったかも知れない。何故なら、当時はジャコモ・アゴスチーニのMVアグスタがすべてにおいて牛耳っていたからだ。

750GTベースのドゥカティニューマシンは、その初のレースで思いもよらぬ結果をえることになった。ドゥカティは4台のワークスマシンをエントリー。ファクトリーライダーのブルーノ・スパッジアーリが隊を率いていた。英国人のアランとその他のイタリア人ライダーも、この「お茶会」に参加したが、周囲を驚かせたのは、ポール・スマートが一員に加わったことだ。

スマートは、アメリカのカワサキチームで走っていたが、理解ある上層部との契約で、彼は“アメリカ国外でのレース参戦”を許可されていた。ある日、カリフォルニアのスマートの自宅に、ドゥカティから電話が入った。そして、それからあとは……いうなれば“歴史”となったのである。

では、スマート氏に当時を振り返ってもらい、そのすべてを語ってもらうことにしよう。

ポール・スマート、イモラ200を語る

イモラ200の画像

2011年現在もボローニャのミュージアム『MUSEO DUCATI』に展示されているウイニングマシン。デモ走行をこなせるようにタイヤやオイルを交換され、動態保存されている。

「私は英国の当時のドゥカティ輸入元であるビック・キャンプのチームで走ったことがありました。それで、私を走らせようと彼らは思いついたようです。ドゥカティから電話をもらったとき、私はアメリカのロードアトランタでレースをしていて、イタリアのドゥカティと話をしたのは妻のマギーでした。ドゥカティは諸経費をすべて払うと約束してくれました。私はボブ・ハンセンのカワサキチームと契約していて、彼のところでまだ9レースしか走っていなかったのですが……。当時アメリカのライダーは、ダートトラックもロードレースも、平気で両方走ったものでした。けれども私は、ロードレース専門だったので、英国に帰り、そちらのレースにも自由に参戦していたのです。

ドゥカティは、私にコンタクトを取る前にも、おそらく他のライダーにも話を持ちかけていただろうと思います。たぶんフィル・リードには打診したはずです。だけど彼が要求したギャランティは、きっとあまりにも高かったのでしょうね!? チャス・モルチメールも候補者だったはずですが、彼は“実績のない怪しげなバイク”には、乗りたがらない性格だったと思います。

誰もが、ドゥカティのバイクが素晴らしい実力を持っていたとは考えていなかったのです。言うまでもなく、初シーズンはまず無理だろうとね。それはハイブリッドバイクでほとんどプロトタイプに近いくらいのものでしたし、どうして規定審査をクリアしたのだろう? と不思議なくらいでした。でも、そこはイタリアですからね!! 私は走ろうと決めましたけれども、これ一回限りだと思っていました。だいたい、イモラ200マイルレースは、私にとって重要なレースではなかったのです。

イモラ200の画像

1971年にすでに実戦デビューを果たしていた500GP用フェアリングを装着した750イモラ。大柄なマシンとはいえ、市販車である並列4気筒モデルをベースマシンにしたMVアグスタ750やホンダCB750よりはスリムなマシンに仕上がっていた。前後バンクのマフラーレイアウトが、エキセントリックな雰囲気を醸し出している。

このレースは新しいコンセプトを持っていて“ヨーロッパのデイトナ200マイルなんだ”と言う人達もいました。振り返ってみると、あれは最初のヨーロピアン・スーパーバイクレースだったわけです!! 主催者たちはアメリカ人ライダーがたくさん参加し、インターナショナルなフィールドになってほしいと望んでいました。エントラントのなかにはジョディ・ニコラスやアート・ボーマン(スズキ)、レイ・ピッカーレル(カワサキ)、さらにパーシー・テイト、ミック・グラント、ピーター・ウィリアムス、ウォルター・ヴィラ(トライアンフ)、そしてもちろんアゴもいました。それはもう強豪揃いのフィールドだったのです。

アメリカからイタリアへ飛び、朝方到着すると、私はその足でバイクテストのためにモデナのテストコースに向かいました。一睡もしていなかったんですよ! その日はすでにレースのある週に入っていました。とにかく本番前のテスト期間は2日しか残されていなかったんです! 最初にバイクをテストした直後の私の感想は、“遅い”ということしかありませんでした。回転は上がらないし、ステアリングもダメ……とね。でも、私は3気筒2ストロークのマシンから降りたばかりでしたからね!! わかりますか?

テストバイクはTT100のロードタイヤを履いていました。それで私は、レースタイヤに換えるように頼みました。ひとたびレースタイヤに履き換えると、マシンはすっかり変身しました。ステアリングは向上し、すべてが良い方向に変わったのです。

メカニックで英語を話す者なんて、一人もいませんでしたから、ちょっとした言葉の障害もありました。かろうじて英語がわかりそうだったのは、フランコ・ファルネだけでした。タイヤ以外に、我々にできそうだったのはフットペグのポジション変更といくつかの細かな点だけで、他には何もできませんでした。時間切れですよ。

イモラ200の画像

夕陽に透けそうなほど薄いFRP製ガソリンタンクが『イモラタンク』の元祖だ。市販車750イモラレプリカのそれに対し、4リットル容量が多い24リットルの耐久仕様だ。

最初、私にとってモデナはゴーカートコースみたいでした。タイヤを換えて10ラップ走ってピットに戻ると、みんなたいそう盛り上がっていて、お互いに肩を叩き合っています。言葉はわかりませんが、私は自分がラップレコードを破ったのだとすぐにわかりました! バイクは8500rpmあたりまで吹け上がりましたが、遅く感じられました(レッドは8250rpmだった)。パワーデリバリーの手法のせいだと思います。アメリカで乗っていた3気筒のカワサキ車に比べると、5~10馬力は劣ると感じましたし、それと同時に重量は20kg以上重いんですよ!! だから私は“このレースに勝ち目はない”と思っていました。なにしろドゥカティにとっても最初のレースですからね。しかも、ライバルには経験豊富なメンツが揃っていましたし。

ただしバイクは明らかにテストが(たぶんイモラで)重ねられていて、キャブは調子が良く、またギア(ファイナル)には手を入れる必要がなかったんです。  個人的には、タリオーニ技師とはそれほど深い付き合いはしませんでした。彼は、私にとっては神秘的な存在でした。いつもタバコをふかしていて……。でも、とても実践的な人だったと思います。彼はいつも何がどうなっているのかを把握したがり、いつもその場にいました。ほんとうに楽しい魅力的な人物で、みんなが大変な敬意を持っていました。一日中タバコをふかしながら、歩き回り続け、考えにふけっている彼の姿が思い出されます。創意に溢れた人でしたね。モーターサイクルは彼の人生であり、彼はモーターサイクルを産んできたのです。

この200マイルレースは、私にとって初めてのイモラでもありました。でも私はサーキットを覚えるのが早いほうなので、それは問題ではありません。私はいつも言っています。4~5回ラップを重ねてもサーキットを覚えられないのなら、レーサーになるべきでないってね。イモラは私の好きなタイプのサーキットで、コーナリングスピードの速いサーキットでした。もちろん現在はすっかり変わってしまっていますが……」

レースの日々

イモラ200の画像

コックピット内はシンプルそのもので、機械式のベリア製レーシングレブカウンターが装着されるのみ。カウルのアッパーステーはフロントステーにボルトオンされる造りである。

「私は、イモラでのレースのために特別な準備をした覚えはありません。思い出すのはウォームアップのとき、雨が降り出すのでは?と心配していたことですね。どんよりとした天候でした。でも、結局私たちはラッキーで、雨は降らなかったのです。たぶんグリッドで30分ほど待っていたと思います。クラッチスタートで、グリッドからスタートするのですが、旗が落ちるのをひたすら待って、そして一気にスタート。冷たいタイヤで第一コーナーを回るんですよ!

レースをする者は誰でも、優勝してしまうと辛かったなんてちっとも思わないものです。スタート直後からしばらくの間、アゴがレースをリードしていました。そして私は彼をパスしました。私のチームメイトのブルーノ(スパッジアーリ)が前にいたかもしれません。このレースではピットインは一度だけで、それはスムーズに済みました。その頃はただ燃料補給だけで、タイヤ交換などしませんでした。ちなみにアゴのMVは、どう見ても750ccではありませんでしたし、他の選手も右に同じ? 我々の750は、まったく規定どおり750ccでした。

レースの前にドゥカティのボス、スパイラーニが“我々がイモラに来たのだから、当然勝てる!”と述べました。彼は、色の違うピンポンのラケットを用意して、メカニックがライダーに指示を出すシステムを編み出しました。つまり赤いラケットを出したら“スローダウンせよ”あるいは“危険”という意味。黄色が“ポジションを変更せよ”。緑が“もっと速く!”といった具合です。想像ですけれど、ドゥカティは、私とブルーノが競ってクラッシュするという事態を避けたかったのではないでしょうか。最後の2周でブルーノが私を抜き、さらに私が彼を抜き返しました。それまで彼はずっと私の後ろについていたのです。彼は、再び私を追い抜こうとしました。リードを取っているときは、できる限りワイドに走ろうとするものです。彼の走りはワイドになり、そしてついには芝の上を滑っていきました。それからあと、私は表彰台に行くまで彼の姿を見ませんでした! 彼はトラックに戻りましたが、私より遅れてのフィニッシュとなりました。それでも2位でしたから。我々は2人とも3位のウォルター・ヴィラやそれから他の選手より、数マイルも前を走っていたんです!!

イモラ200の画像

72年型の750イモラは前後バンクのマフラーが完全にセパレート形状だったが、73年型の750イモラは左右ともにアップマフラーで、低中速域でのトルクアップに貢献する連結パイプがエンジン後方にレイアウトされていた。左のマフラーはフレームサイドを横切るため、レーシングブーツを焼かないように手作りのアルミ製ヒートバッフルが取り付けられている。このため自然と足開きライディングポジションになってしまう。

このレースはもちろん、その日がずっとスペシャルなものでした。誰もが優勝したときの準備をしていなかったんですよ!! それからさらにスペシャルなことに、それは私の誕生日でもあったのです! すべてがあまりにも素晴らしく、ドゥカティは月へ飛んだくらいの大騒ぎでした。表彰式が済むと、バイクも我々ライダーも(革ツナギを着たまま)ボローニャに行き、街をパレードしたんです。まるで法王みたいでしたね!! 私たちはボローニャの駅前で休みましたが、広場には何千もの人が集まっていました。そして、みんな大喜びで私たちに手を振っていました。現在で言うなら、まるで地元のサッカーチームが優勝したみたいな扱いですよ! ほんとうに思いがけない勝利で、そしてドゥカティは故郷に錦を飾れたわけです。

バイクが100%の力を出して走ったのですから、イモラはちょっと変わっていますよ。ドゥカティのボス、スパイラーニがレース前に言ったとおりになったわけです。最後の一周まで、しっかりと走り切れたのです。たぶん、寒い天候がバイクに味方したのではないかと思います。あとで聞いたのですが、ブルーノのバイクは燃料切れすれすれだったそうです。でも私はそれが問題だったのではないかと思います。思うに、“芝の上”を走ったのがいけなかったんですよ。あまり知られていないことですが、実を言うと私のほうがレース中に問題があったのです。たった15~20周したところで、ヘアピンに熱中しているときに1速が外れたんです……。そんなこと後にも先にもありませんでしたよ! バイク全体がガタガタとノイズを出し、私は最悪の事態を恐れました。丁寧に次の2、3周を走り、そしてレースを続けました。その後は二度と1速に入れようとしませんでした。当時、クラッチを滑らすことはできませんでした。そんなことをしたらバイクが死んでしまいます。クラッチは非常にもろくて、滑らせたりしたら持たなかったのです。

イモラの後、ドゥカティでフォーミュラ750クラスに参戦したのは4回だけです。すべてイギリス国内のレースでした。ブランズハッチのハッチンソン100では優勝しました。途中でフィル・リードを抜いたんですよ。でも完走したのはそれだけで、他のレースは全部、電気系統(ポイント点火式)の問題でリタイヤしていましたから」

この出来事が、世界中のドゥカティストの間で今なお語り継がれているイモラの真実である。世界中に数多くのサーキットがあるが、ドゥカティ関係者、そして世界中のドゥカティストにとって、イモラは特別な場所、まさに“聖地”と呼ぶにふさわしいサーキットなのである。

イモラ200の画像
シルバーショットガンと形容されたメタルフレーク塗装は、71年、72年当時のドゥカティのトレードマークでもあった。市販車としてはシングルシリーズにのみこのペイントが採用された。カウルサイドのDUCATIロゴはペイントによる筆書きだった。
イモラ200の画像
トップブリッジ&三つ又もマルゾッキ製でポリッシュ仕上げ。ハンドルのクラッチ側は、レバーホルダーがハンドルバーと一体式で、レバーの取り付け角度を調整できない仕様となっていた。フロントフォークのインナーチューブ径は市販車と同じ38φ。
イモラ200の画像
バッテリー後方のスイッチは、ボディアースリードの途中に設けられているイグニッションスイッチ。接点をターンさせることでボディとのアースが接続される。この時代にはハンドル周りにキルスイッチの装着は義務づけられていなかった。
イモラ200の画像
現在タイヤは履き換えられているが、当時はダンロップ製KRレーシングやメッツラー製ブロックCレーシングが採用されていた。フロントリムサイズは2.15-18でイタリアのボラーニ製を採用。キャリパーブラケットはボトムケースと一体式になっている。
イモラ200の画像
キャブレターはデロルトPHM40でマニホールドはアルミ製ではなくスチール製を採用する。74年、75年の750SSには、750イモラと同じタイプのスチール製マニホールドが採用されていた。リアのブレーキマスターにも増量リザーブタンクが組み込まれている。
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エンジンは71年に登場した750GT用をベースにしており、クランクケースは砂型だった。シリンダーやシリンダーヘッドは市販車と同じパーツで、シリンダーヘッドにはデスモドロミックと2本目のスパークプラグが組み込まれている。
イモラ200の画像
前後ブレーキコンポーネンツはすべて英国のAPロッキード社製。ブレーキマスターには増量リザーブタンクが追加されている。ブレーキパッドの減りによってブレーキフルードが不足するための策である。キャップはロッキード製を加工して軽量化している。
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リアブレーキキャリパーもAPロッキード社製対向2ポッド仕様。旧型ボディのAP2696を採用する。ディスクローターは小径仕様で、74年、75年の750SSイモラレプリカにはこのタイプが採用された。ブレーキラインはやはり英国のインテックホース社製を採用。
イモラ200の画像
リーディングアクスルのマルゾッキ製フロントフォークは73年型までドゥカティ750GTや750Sが採用していた。ディスクローターは4ヶ所に肉抜き加工を施されたワークスマシン専用パーツ。71年発表の750Sプロトタイプに装着されていたパーツと同じだ。

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