VIRGIN DUCATI | Bruno Spaggiari (ブルーノ・スパッジアーリ) ドゥカティ人物辞典

Bruno Spaggiari (ブルーノ・スパッジアーリ)

  • 掲載日/2011年03月10日【ドゥカティ人物辞典】

彼なくしてドゥカティと Lツインの成功はなかった
ブルーノ・スパッジアーリ Bruno Spaggiari(1933-)

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1968年に撮影された写真。自転車にまたがっているのはMVアグスタで走っていたジャコモ・アゴスチーニ。左がスパッジアーリ。彼らはよきライバル同士だった。

Lツインとデスモを世界に
知らしめたワークスライダー

「スパッジアーリは私が設計したモーターサイクルに乗る私の耳目であり、手足であり、心である」

ドゥカティの父とも称される天才技師ファビオ・タリオーニは、ブルーノ・スパッジアーリについてそう語っていた。彼をドゥカティのテストライダーとしてスカウトしてきたのもタリオーニ自身で、スパッジアーリはタリオーニが設計した100ccのレーサー「マリアンナ」を走らせ、長距離レース「ジロ・ディタリア」で二つのステージで優勝し、「ミラノ・タラント」ではクラス2位でゴールし、タリオーニを喜ばせた。

「彼は私には決してできない限界までマシンを攻めるとどうなるのか、私に教えてくれる。そのおかげで、私は開発が次のステップに進むために何をすればいいのかを知ることができる」

スパッジアーリはタリオーニの絶大なる信頼を受け、ドゥカティワークスレーサーとして数々のレースに出場した。1954年にはアルベルト・ガンドッシとチームを組み、ドゥカティ125でモンジュイック24時間レースに出場、大排気量車を相手に大健闘の活躍を見せ、なんと総合優勝を飾るのだ。さらに多くのレースに出場して優勝を数多くもたらし、ドゥカティの名をイタリア中に広めていく。1958年には世界チャンピオンだったMVアグスタのワークスチームを破り、タリオーニの傑作である125ccデスモシングルとともに表彰台の真ん中を勝ち取った。現代まで続くドゥカティ・デスモドロミックにとって、これが初めての勝利だ。

スパッジアーリの好調はしばらく続いたが、レースよりも市販車に資金を投入する意向を示したドゥカティの思惑もあり、スパッジアーリはドゥカティを離れる。その後はMVアグスタやベネリといったイタリアメーカーだけでなく、スペインのモトトランス(ドゥカティの子会社でもある)、などのワークスライダーを務め、同時にドゥカティの開発ライダーもこなすなど、流浪のレーサー生活を送ようになる。

それまでの成績から小排気量向きのライダーと思われていたスパッジアーリだったが、1972年には750ccデスモLツインを駆り、イモラ200マイルレースにてチームメイトのポール・スマートとMVアグスタワークスのジャコモ・アゴスチーニらと優勝争いを演じ、ポール・スマートに次ぐ2位でフィニッシュしたのだ。

その後もスパッジアーリはLツインデスモで数々の勝利をドゥカティにもたらし、デスモドロミックとLツインの優位性を世界にアピールしたのである。1975年、彼はホームグラウンドのイモラにて20年間のレーサー生活を終えると、故郷のレッジオ・エミリアでプジョーのディーラーを営む生活を送った。

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1972年、イモラ200マイルレースで750ccデスモLツインを駆り、2位となったスパッジアーリの走り。

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