VIRGIN DUCATI | Mike Hailwood (マイク・ヘイルウッド) ドゥカティ人物辞典

Mike Hailwood (マイク・ヘイルウッド)

  • 掲載日/2011年03月03日【ドゥカティ人物辞典】

華麗なる生い立ちと経歴 そして早すぎた死
マイク・ヘイルウッド Mike Hailwood(1940-1981)

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【左】マイク・ヘイルウッド、19歳。ドゥカティの2気筒175ccレーサーをテストした。この後、彼はこのマシンでGP優勝を果たす。 【右】MVアグスタで走っていた頃のヘイルウッド、25歳。この前後に彼は世界GPを4年連続で制覇する偉業を達成している。

ドゥカティからはじまった
天才ライダーのレース人生

マイク・ヘイルウッドは、イギリス最大手バイクディーラーチェーンを経営する富豪、ヘイルウッド家に生まれた。そのため幼少の頃からオートバイに親しみ、レーサーとしてのキャリアを17歳からスタートする。1957年、175ccのMVアグスタが彼にとって初めてのレーシングオートバイだった。

当時、オートバイレースの最高峰にいたMVアグスタからデビューを飾ることができたのは富豪である父、スタン・ヘイルウッドのコネクションと財力によるものだ。しかし、周囲の人間たちはマイクがステレオタイプのお坊ちゃんではなく、外国人をはじめとして様々な人々と打ち解けることができる人柄を認めていた。彼は実に謙虚で、好感度の高い人物であり、なおかつ天賦の才能を持つライダーだったのである。

翌年、彼はマン島TTに参戦する。マシンはNSUスポーツマックス(250cc)で、初めてのTTで3位フィニッシュを決める。アッセンのダッチTTでは同じマシンを駆って4位、同日開催の350ccクラスではマンクス・ノートンに乗り5位入賞を果たしている。そしてその年の世界250cc選手権を4位で終えた。

息子の大活躍に気をよくした父・スタンは、ドゥカティに在籍していた天才技師ファビオ・タリオーニに目をつける。スタンはロードバイクディーラーという影響力を行使してタリオーニをチームに招聘、ここに二人の天才が揃うのである。そして1959年、マイク・ヘイルウッドとファビオ・タリオーニの才能が結実し、175ccレーサーを駆って最初の3レースをすべて3位入賞、アルスターでは初のGP優勝をもぎ取り、スタンの期待に応えるのだった。

スタンの野望はとどまるところを知らず、タリオーニに250ccと350ccのマシン開発を要請する。1960年、タリオーニはDOHC 125ccビアルベロ(通称トリプルノッカー)をベースに排気量を拡大したマシンを完成させる。しかしこのマシンは抜群の速さを持っていたものの複雑なエンジンヘッド構造ゆえトラブルが常につきまとった。そのため250ccクラスで4位に二度入賞するのがやっとだった。

そうして残念なことにドゥカティとマイク・ヘイルウッドの蜜月は、たったの2年で幕を閉じる。

翌年から彼はホンダ・ワークスチームに参加し、マン島TTではホンダとマンクス・ノートンで優勝、さらに250cc世界GPでは三回の優勝を果たし、シリーズチャンピオンも獲得するのである。翌62年にはMVアグスタに乗り500㏄世界GPをも制覇、チームメイトのジャコモ・アゴスチーニとともにMVアグスタのレース史に華々しい成績を残している。

その後、再びホンダに戻ったヘイルウッドだが、計77回ものGP優勝という記録を持った彼をしてもMVアグスタの3気筒を打破することができないまま、67年のシーズンを終えるとホンダの世界GP撤退とともに2輪レースから退くのだ。

といっても4輪レーサーとして活動の場を変えただけであり、彼はまだサーキットで生きていた。そして4輪レースに転向したヘイルウッドだが、ノンタイトルの2輪レースには出場しつづけていたのである。彼の本分はやはりオートバイであり、さらにそのときが来れば2輪レースに復帰することを公言していた。そうした渦中にあった71年、ドゥカティが前年のミラノショーで発表したLツインエンジンを搭載するマシンのテストに参加している。しかしヘイルウッドは「まだ勝てるマシンに仕上がってはいない」と結論を出す。

72年、ジョン・サーティスが製作したF2マシンで優勝、F1ではマクラーレンに参加して走りはじめるが、74年にニュルブルクリンクで大クラッシュに見舞われて、ヘイルウッドは左足を損傷する。この事故が4輪レーサーとしてのキャリアを終わらせてしまう。

それから三年後の78年、ヘイルウッドは突如マン島TTへの復活を公表する。しかし7年のブランクはあまりに大きく、彼に心酔するファンたちですらその復活を不安視した。だがヘイルウッドはそんな懸念を吹き飛ばすかのごとく、900 TT1レーサーを駆って優勝してしまうのである。それは彼にとって10個目となる世界タイトルだった。一週間後のレースでも優勝を果たし、彼は復活の足場を確実なものにしたように思えた。だが翌年のマン島TTではドゥカティの新開発シャシーが失敗し、勝利を逃してしまう。

そして1981年、ヘイルウッドは娘を乗せてバーミンガムで車を運転中に、前方で突然Uターンをはじめたトラックを避けきれずに衝突、娘とともに帰らぬ人となってしまう。享年四十。早すぎる死であった。

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38歳でマン島TTに復帰、周囲の不安をよそに優勝したマイク・ヘイルウッド(左)。手にしているのは優勝メダル。右はドゥカティ輸出本部長のバレンティーニ。

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